正常な心と病んだ心
カテゴリー
Full Description
心の医療
1正常な心と病んだ心
] 日本語 [
طب القلوب
1- القلوب من حيث الصحة والمرض
[اللغة اليابانية ]
イブン・カイイム・アル=ジャウズィーヤ
ابن قيم الجوزية
サーリフ・アッ=シャーミー編
جمع وترتيب: صالح الشامي
翻訳者: サイード佐藤
ترجمة: سعيد ساتو
校閲者: ファーティマ佐藤
مراجعة: فاطمة ساتو
1429 – 2008
正常な心と病んだ心
◆心の位置づけ:
心は全ての身体器官を所有し、かつ作動させるもので、またそれらを使用するものでもあります。これが心が身体器官に包まれ、その中枢に位置している所以なのであり、また心は身体器官により仕えられている立場にあります。
また心は最も高貴な身体器官であり、人の生命はそれに依拠しています。心は活力に溢れた精神と欲望のエネルギーの源泉なのです。
また心は理性と知識、理念と勇敢さ、寛大さと忍耐強さ、耐久性と愛情、意思と歓喜、憤怒など諸々の性質の源でもあります。
実に外的な部位も内的な部位も全て、身体器官とその能力は心の軍隊であるに他なりません。
例えるならば、眼球はそれが視覚によって捉えるものを伝達する先導者であり、何かを発見すればそれを心に伝えます。眼球と心は非常に緊密な関係にあるゆえ、時に眼は心の中にあるものを映し出すことがあります。ゆえに眼は、人の心の中を覗き見ることの出来る鏡面の集合体でもあるのです。
また舌は、人の心に耳を傾ける者に対し、その内にあるものを伝達する翻訳者の役割を担います。
これら三つの器官‐聴覚と視覚と心‐がクルアーンにおいて並列された形で頻繁に言及されるのは、こういった理由からなのです:
-聴覚も視覚も心も、全てそれらは(それでもって行ったことについて)訊ねられることになるのである。,(クルアーン17:36)
また心と視覚の並列もよく見られます:
-そしてわれら(アッラーのこと)は、彼らの心と眼を(信仰から)反転させるのだ。,(クルアーン6:110)
舌が心の翻訳者であるとすれば、耳は心への連絡者と言えるでしょう。
ひっくるめた話が、その他のものを含む全ての身体器官は心に対する奉公人であり、臣下なのです。預言者(彼にアッラーからの祝福と平安あれ)は心について、こう言いました:「見よ、実に肉体には、それが正されれば全てが正されるところの一個の肉塊がある。実にそれは心なのだ。」[1]
またアブー・フライラ(彼にアッラーのご満悦あれ)は言いました:「心は王であり、身体器官はその兵隊である。王が良ければ兵隊もまた良く、王が悪ければ兵隊もまたそうなのだ。」[2]
そして心が生と死によって形容されていることから、その状態は三つに分けられます:
1-正常な心:
正常な心とは:審判の日にその状態にない限りは救われることのない、健常な心のことです。崇高なるアッラーはこう仰いました:-(審判の日である)その日は、財産も子孫も役には立たない。しかし、健常な心をもってアッラーの御許に罷り出た者は別である。,(クルアーン26:88-89)
「健常な」とは言うまでもなく、「長い」「短い」「面白い」といった品詞同様の形容詞です。
そして「健常な心」とは、健常さが完全にそこに定着したような性質にまで至った心のことを指します。「知識の豊富な」とか、「能力がある」といったような形容詞が果たす役割と同様です。また「健常な」という形容詞は、「病んだ」とか「不健康な」とか「欠陥のある」とかいう言葉の反対語でもあります。
学者たちはこの「健常な心」の意味の解釈において異なった見解を示していますが、包括的には次のような意味になると言えるでしょう:
「アッラーのご命令に反するいかなる欲望からも免れており、アッラーの仰る物事に関していかなる疑念も抱かない心。
またアッラー以外のいかなるものに対する隷従からも、そしてその使徒以外のいかなる者に裁決を求めることからも免れているもの。
またアッラーに並べて何ものかを愛したり、恐れたり、望んだり、タワックル(全ての物事を委ねること)したり、悔悟したり、へりくだったりすることから無縁であること。
そしていかなる時にもアッラーのご満悦を最優先し、かれのお怒りを招くようなことはいかなる手段をもってしても回避すること。」
そしてこのような状態こそは、至高のアッラー以外のいかなるものに対してもそのようにあることが決して許されないところの、真の従属性なのです。[3]
ゆえに健常な心とは、アッラーに対するあらゆる形のシルク[4]からも無縁であり、かつかれに対する従属性が‐意志や愛情、タワックルや悔悟、従順さや畏怖、希望の念などにおいて‐純粋の極みにまで達したものです。
またそのような心の持ち主の行いもまた、アッラーに対して純粋なものとなります。つまり愛せばアッラーゆえに愛し、憎めばアッラーゆえに憎み、また与えるならばアッラーゆえに与え、禁じるならばアッラーゆえに禁じるといった具合です。
そして事はこれらだけで十分ではありません。健常な心であるためには、アッラーの使徒(彼にアッラーからの祝福と平安あれ)以外のいかなる者に対する服従からも無縁でなければなりませんし、また彼以外のいかなる者の判決にも依拠するべきではありません。そして以下に示すようないかなる言動においても、彼のみを先導者として模範とすることを強く肝に銘じなければならないのです。
・心の言葉:つまり信条。
・舌の言葉:心の中にあることの伝達。
・心の行為:意思や愛情、嫌悪の念など。
・身体の行為
つまり以上の全てのことに関し、些細な物事から肝心な物事に至るまで、預言者(彼にアッラーからの祝福と平安あれ)‐つまり彼が私たちにもたらした教え‐を心の判決者とするのです。そして至高のアッラーの、-信仰者たちよ、アッラーとその使徒に先んじようとするのではない。,(クルアーン49:1)という御言葉通り、信条においても言動においても彼をないがしろにしてでしゃばったりしてはなりません。
彼が話す前に先んじて話したり、彼が命じない前から行動したりしてはいけないのです。
ある先人はこう言っています:「いかに小さな行為でも、(審判の日に)“なぜ?”と“いかに?”という2冊の記録簿によって(その真の価値を)確認されずに済むものはない。つまり“なぜその行為を行ったのか?”と“いかにその行為を行ったのか?”ということである。」
そしてこの「なぜ?」とは、その行為の原因や動機に関しての質問です。つまりその行為を行った理由が、行為者の現世的利益によるものであったのか?または他人の賞賛を求める心や他人に対する恐怖などの、現世的目的に因を帰するものであったのか?それとも現世において単に好きな物を手に入れ、嫌いな物を遠ざけるためであったのか?あるいはまたアッラーのよきしもべであることや、崇高なる主へのお近づきやかれの寵愛を求めて行ったことであったのか?
そしてこの質問の焦点は、こういうことなのです:果たしてその行為はあなたの主ゆえに成されたのか、それともあなた自身の現世的利益や私欲ゆえに成されたのか?
一方「いかに?」とは、その行為におけるアッラーの使徒(彼にアッラーからの祝福と平安あれ)への追従に関する質問です。つまりその行為をアッラーが彼の舌を通じて定められた通りに行ったか、あるいはそれをアッラーが彼を通じて定めもしなければ、お悦びにもなられないような形で行ったのか、ということです。
そして「なぜ?」で問われるのがその行為における「イフラース(真摯さ、純粋さ)」であり、「いかに?」で問われるものがその行為における「アッラーの使徒(彼にアッラーからの祝福と平安あれ)への追従」なのです。
崇高なるアッラーは、これら二つの要素を満たしていない行為を受け入れられません。
そして第一の質問を突破する方法は「イフラースの純化」であり、第二の質問の突破法は「アッラーの使徒(彼にアッラーからの祝福と平安あれ)への追従」です。心はイフラースに反するような願望や、彼への追従とは相反するような私欲から無縁でなくてはならないのです。そしてこれこそが、救いと幸福が保証された心の真実なのです。
2-死んだ心:
そして心の二つ目の種類が、「正常な心」とは相対したものであり、もはや生のない「死んだ心」[5]です。つまりその主を知らず、かれが命じられかつお悦びになるような方法に従ってかれを崇拝せず、それどころか欲望や快楽と共にあるような心のことです。そしてそのような心は、欲望や快楽の追求においてその主のお怒りなど気に留めることもありません。欲望を解消し望むものを手に入れれば、その主がお怒りになろうがお悦びになろうがお構いなしなのです。
このような心はその愛情、恐怖、満足、怒り、また何かを尊大視したり何かにへりくだったりすることにおいて、アッラー以外のものを尊奉しています。そして自分の欲望ゆえに愛憎し、また自分の欲望ゆえに与えたり禁じたりするのです。
つまりこのような者はその主のお悦びよりも、自分自身の欲望を愛し優先しています。彼の導師は私欲、司令官は欲望、統治者は無知、乗り物は無頓着さなのです。その頭の中は現世的目的の達成に関することで渦巻いており、欲望の酩酊と目先の利益に埋もれています。アッラーと来世へといざなわれようともその声は届かず、助言者に返答も出来ません。ただ主への反逆者シャイターンに追従し、現世が彼を愛憎へと駆り立てます。そして欲望は彼が、虚妄以外の何物も耳に入れさせないようにしているのです。
これはちょうど現世に対し、有名な詩のくだりの中に言及されるライラ(女性の名)への熱愛にとり憑かれた者のような状況にあります:
彼女の敵は彼の敵、彼女の味方は彼の味方
ライラが近づくものこそ彼の愛しく密なるもの
このような心の持ち主との交流は病を及ぼします。そして彼と懇意にすることは毒であり、共にあることは破滅を呼ぶのです。
3-病んだ心:
三つ目の心の種類は、生はあっても問題を抱えている類のものです。この種の心には二つの要素が並存しており、時にはその一方が、そしてまた時にはもう一方が勢力を強めます。そしてこのような心の持ち主は、その都度より勢力の強い方の支配下に入るのです。
つまりその一方とはアッラーへの愛、かれに対する信仰心や真摯さ、タワックル(全て任せること)などという生の要素のことです。
そしてもう一方は欲望への愛と、それを優先し、またそれを達成させようという執着心や、嫉妬心、高慢さ、自惚れ、権威や地位に対する欲望などといった、破滅と損失の要素のことです。
病んだ心の持ち主は、二人の呼びかけの間で試練にかけられます。つまり一人はアッラーとその使徒、そして来世へといざなう者で、もう一人は目先の刹那的な喜びや利益へといざなう者です。そしてこのような者はその折々の自分にとってより近い方の扉へ、あるいはより近い隣人の方へと向かうのです。
それゆえ第一に示した心が、アッラーに静かに従順し、柔軟で啓発された、生きた心です。そして第二の心は乾き切って死んでしまった心であり、第三のものは時には健常さに傾き、また時には破滅の方へと傾く病んだ心なのです。
◆これら3つの種類の心に言及した聖クルアーンの節
-われら(アッラーのこと)があなた以前に遣わした使徒や預言者も朗誦した際には、(それを妨害しようとした)シャイターンがその朗誦に雑音を混入させようとしなかったことはなかったのだ。そしてアッラーはシャイターンが混入させるものを打ち消し、そのクルアーンの章句を(そのような虚妄から)お守りになられる。アッラーは全てをご存知になり、この上なく英知溢れたお方である。(このようなことは)シャイターンが吹き込むものをもって、心に病を有する者と心が硬化した者を試練にかけるためなのだ。実に不正者こそは途方もない敵愾心の中にある。そしてまた(このようなことは、)知識を有する者がそれ(虚妄の付け入る隙のないクルアーン)が真理であることを悟り、そしてそれを信じ、またその心がそれに従順になるためなのである。実にアッラーこそは、信じる者たちを真っ直ぐな道へとお導きになられるのだ。,(クルアーン22:52-54)
こうして崇高なるアッラーは、この章句の中で三種類の心‐二つの危機的状態にある心と、一つの成功した心‐に言及されました。そして危機的状態にある心とは、病に冒された心と硬化した心のことです。一方成功した心とは、その主を信仰し、かれの御許で平穏かつ従順な心のことです。
そして心というものは他の身体器官同様、何の害悪や病気もない正しく健常な状態でなければなりません。また心がそれゆえに備えられ、かつそれゆえに創造されたところの機能を発揮するようでなければならないのです。
心が正しい状態から逸脱することには、二つの場合が考えられます:つまり一つには乾燥や硬化によって、そうあるべき機能に支障をきたしている場合です。つまり麻痺した手や発声しない舌、臭覚のない鼻や不能な性器、視覚のない眼などと同様の状態です。
そしてもう一つは、これらの動作の完全さと正常さを妨げるような病や害悪の存在です。
このように心は三種類に区分されます:
正しく健常な心は、真理を受容し、愛し、それを何よりも尊ぶ心であり、真理とその心を阻むものはその心が有する感覚機能以外には何ものも存在しません。これこそが正しい感覚なのであり、真理を完全に受容し、かつそれに完全に従属している状態です。
そして硬化して死んでしまった心とは真理を受容せず、それに従うこともない心です。
また病んだ心とは、その病が重くなれば硬化して死んでしまった心に区分され、そして健常さの方が勝っていれば健常な心の方に区分されるような心のことです。
◆正しく健常な心にはシャイターンは太刀打ち出来ない:
シャイターンが人の耳に囁きかける言葉と心に投げ入れる疑念や当惑などは、上記の二番目と三番目の心にとっては試練となりますが、生きている健常な心にとっては力となります。というのも健常な心はそれに反発し、それを毛嫌いし、憎悪し、また真理がそれとは反対のものであることを悟るからです。そしてそのような心は真理に対してひたむきに従い、安静となり、シャイターンの攻撃の虚妄性を知ります。また真理への信仰心と愛情を増加させると共に、虚妄性への否定力と嫌悪感を増幅させるのです。
試練に苦しめられている心は、常にシャイターンの攻撃によって疑念の中にあります。
しかし健常で正しい心は、シャイターンの攻撃などに決して害されることはないのです。
[1] サヒーフ・アル=ブハーリー(52)、サヒーフ・ムスリム(1599)。
[2] 編者注:心に関するこの主題は、イブン・カイイム著「幸福の館の鍵」(イブン・アッファーン出版社、2/16)に言及されています。
[3] 編者注:イブン・カイイムはその著作「幸福の館の鍵」(1/200)の中で、こう述べています:「心はそのような状態(つまり健常な状態)にある時、シルク(アッラーが専有する主性や神性、美名や性質や行為などにおいて、アッラー以外の何かが権威を有すると認めるような言動や考えのこと)やビドゥア(預言者やその教友、その次世代の者たちも行っていなかったような宗教に関する物事を新規に発明したり、実践したりすること)、邪な道や虚妄から免れています。」
[4] 訳者注:上記注参照。
[5] 編者注:ここで言う「死」とはそのものの意味ではなく、善に背きかつ悪に耽溺する状態が定着し、その結果心を善へと反転させることが絶望的な状態に陥ることを意味しています。そしてこのような状態においてさえも、イスラームはこのような「死んだ心」を完全に見捨ててしまうことはありません。それどころかむしろそれを善へと招き続け、そしてその結果アッラーがそこに生命を宿らせることすらありえるのです。例を挙げるならば、ムスリムたちがマッカでの迫害を逃れてエチオピアへ移住したことにまつわる出来事があります。当時まだ不信仰者であったウマル・ブン・アル=ハッターブは、既に移住のための荷造りを終えたアーミル・ブン・ラビーアの妻ウンム・アブドッラー・ビント・アブー・ハスマの前に立ちはだかり、彼女の旅立ちを悲しんで「無事に着くように」と言いました。彼女が夫(アーミル・ブン・ラビーア)-その場には居合わせていませんでした‐にこの出来事を伝えると、彼は言いました:「奴のイスラーム改宗を望むのか?」彼女は「ええ」と答えました。すると、彼はこう言いました:「アル=ハッターブ家のロバが改宗するまで、奴は改宗しないだろうよ。」この言葉は、当時のウマルがイスラーム改宗などからはほど遠い状態にあったゆえの諦観から発されたものでした。そしてこの本において「死んだ心」を取り上げるのは、そのような心の種類や性質において知識を得ることであり、またそのような心の状態にある者が‐それを望むならば‐その治療へと急ぐことを意図してなのです。