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本人がそれを自覚しているかどうかは別に、心の病と健常さにはそれぞれ印や兆候があります。

    心の医療

    心の病と健常さの印

    ﴿ علامات مرض القلب وصحته

    ] 日本語 – Japanese – ياباني [

    イブン・カイイム・アル=ジャウズィーヤ

    サーリフ・アッ=シャーミー編

    翻訳 : サイード佐藤

    校閲 : ファーティマ佐藤

    2009 - 1430

    ﴿ علامات مرض القلب وصحته

    « باللغة اليابانية »

    ابن قيم الجوزية

    صالح الشامي (جمع وترتيب)

    ترجمة: سعيد ساتو

    مراجعة: فاطمة ساتو

    2009 - 1430

    心の病と健常さの印

     ◆心の病の定義:

     全ての身体器官は何らかの行為のために創造されています。そしてその器官によってその行為が達成されることで初めて、その器官は完全であると言えるのです。

     そして心の病とは:心がそのために創造されたところの行為が不可能となり、それが遂行出来なくなること。あるいはその行為を遂行するにあたって、ある種の問題を伴うことです。

     腕の病は:力の消失。

     目の病は:視覚の消失。

     舌の病は:発音の消失。

     身体の病は:自然な動作の消失、あるいはその弱体化。

     そして心の病は、心がそのために創造されたこと‐つまりアッラーを知ること、かれへの愛、かれとの謁見への希求、かれへの悔悟、そしてこれら全てのことをいかなる欲望よりも優先付けること‐が不可能な状態に陥っていることを意味します。

     それゆえあらゆる物事を知ってはいても、その主のことを知らないのなら、その者は何も知らないことになります。また現世におけるあらゆる幸運と快楽、享楽を手にしていたとしても、もしアッラーへの愛とかれへの慕情、かれと共にある安らぎを得られていないのであれば、その者はいかなる快楽や恩恵、安楽などにも与かってはいないことになります。そしてもし心がそのような要素を満たしていなければ、それらの幸運や快楽は後に必ず懲罰として帰って来ることになります。そしてその者に享楽を提供していたものは、二つの意味において彼を罰するものとなるのです:

     1-魂がそれらの享楽に強力に執着していたことにより、それを阻まれ喪失した際に感じる悲哀。

     2-その享楽よりも優れ、有益で、かつ永続するものを得られなかったこと[1]

     こうして彼は手に入れていた愛するものを失い、最も愛すべきものを得られなかったことになるのです。

     アッラーを知る者は誰でも、かれを愛します。そしてかれのみにその崇拝行為を向け、他に愛するいかなるものよりもかれを優先させるのです。

     もし自分の愛する何らかをアッラーよりも優先付けているのなら、その者の心は病んでいます。

     それはちょうど、良い食事をそっちのけにして悪い食事の摂取に慣れた胃が、良い食事への欲求を減少させ、その結果それ以外のものを嗜好するようなものです。

    ◆心の病の自覚:

     心が病にかかり、その病状が悪化しているにも関わらず、その張本人はその健常さやその諸要因について疎かったり、あるいはおろそかにしていたりするために、そのことについて気付かない場合があります。それどころか心が既に死んでしまっていることにすら、気付かないこともあるのです。ここにそのいくつかの兆候を挙げていってみましょう:

     1-悪行や醜行による傷にさえ、痛みを感じない。

     2-真理を知らないことや、誤った信念に痛みを感じない。

     生きている心というものは、醜行に痛みを覚えるものです。そしてその生命力に応じて、真理を知らない状態であることに苦痛を感じるものなのです。

    死人にはもはや痛みなし

    ◆荒療治に耐える必要:

     もしかすると心が病んでいる者はそれに気付いてはいても、治療薬の苦さに辛抱することに困難を見出すかもしれません。これは治療の辛さより、苦痛の継続を優先させている状態です。そして心の病の治療薬とは欲望の克服です。これこそは自己にとって最も厳しく、かつ最も有効なものなのです。

     ある種の人は自らを忍耐へと促しますが、しばらくしてその決意を放棄します。そして知識と慧眼、忍耐の欠如ゆえにその状態を継続する事が出来ません。

     それはちょうど、この上ない平安へと続く不気味な道を行く者のようです。彼はそこで辛抱すれば恐怖は去り、やがて平安が訪れる事を知っています。彼には忍耐する力と、その道を行くことにおける確信が必要なだけなのです。しかし忍耐と確信が揺らいだ時、彼は困難に耐え切れずに道を引き返してしまいます。それは特に誰も連れ合いがなく、孤独ゆえに恐怖してしまった場合により顕著です。彼は言います:「皆はどこだ?私は皆と共にいたいのに。」

     これが大半の人々の状態です。そしてこれこそが、人々を破滅に陥れるものなのです。

     ◆病んだ心の印:

     病んだ心の印には、以下のようなものがあります:

     1-有益かつ適切な栄養を差し置いて、有害な食事を摂取すること。

     2-有益な薬を避けて、有害な病へと赴くこと。

     ここには四つのものがあります:つまり①有益な栄養、②治療薬、③有害な食事、④破滅的な病。

     ◆健常な心の印:

     健常な心とは:病んだ心とは逆に、害悪よりも有益さと治療を優先させるものです。

     そして最も有益な栄養とは信仰心であり、最も有効な治療薬はクルアーンです。そしてそのいずれにも、栄養と治療が含まれているのです。

     また健常な心の印には、他にも次のようなものがあります:

     心が来世に向けて現世を旅立ち、そこに身を置いていること。そしてまるでその住人であるかのごとく、そこに居留すること。またこの現世には異邦人として訪れ、そこで必需品のみを手にした後には、また自らの住み慣れたその土地に戻ること。これこそは預言者(彼にアッラーからの祝福と平安あれ)がイブン・ウマルに伝えた、次の言葉通りのことです:「現世においては異邦人か、あるいは一時的に停留する旅人のようであれ。そして自分自身を、墓の中の住人と見なすのだ。」[2]

    来たれ原初の住まいエデンの園へ そこには天幕がある

    しかし私たちは敵のとりこ 無事に祖国へは帰れるのか?

     アリー・ブン・アビー・ターリブはこう言いました:「現世は過去へ立ち去って行くもの。来世は未来へと向かってくるもの。そしてそのいずれにも伴侶がある。ゆえに来世の伴侶となり、現世のそれとなるのではない。今日は清算はないが、仕事がある。そして明日にはもはや仕事はなく、清算が待っているのだ。」

     心は病から健全な状態であればあるほど来世へと向かい、そこに近づきます。そしてその住人となるのです。一方心の病が重大になればなるほど、それは現世へと傾きます。そしてそこに定住し、終いにはその定住民となるのです。

     また心の健常さの印の一つとして、次のようなものもあります:

     心が自己を、至高のアッラーへの改悛と服従へと促すこと。また愛さずにはいられない者の愛情でもって、かれを強く愛すること。このような者にとって、かれのご満悦とかれへの奉仕、かれに対する安らぎの念なしには、その生命も、幸福も、享楽も、歓喜もありません。またこのような者はかれと共にあることで平安を得、安らぎ、喜び、かれに居場所を求め、全てを委ね、かれを信頼し、かれに望み、畏怖の念を抱きます。

     ゆえにアッラーの想念は彼の力であり、栄養であり、愛情なのです。そしてかれに対する慕情は彼の人生、享楽、快楽、歓喜です。このような者にとってアッラー以外のものに関心を向け、執着することは病以外の何ものでもありません。そしてアッラーの御許に立ち返ることこそは、彼の治療薬なのです。

     こうして彼はその主に出会うたび、安寧と平安を覚えます。そして彼の動揺や不安は取り除かれ、それらの欠乏は堰き止められるのです。

     心には、アッラーのみにしか埋めることの出来ない欠けた部分があります。

     心には、アッラーへと向かうことでしか整えることの出来ない、ある種の乱れがあるのです。

     また心には、アッラーに対する真摯さと、かれのみを崇拝することでしか癒すことの出来ない病があります。

     健常な心はその身体を、常に拝すべきものへ、崇めるべきものへと追いやります。そしてそこに落ち着き、そこに平穏を見出すのです。こうして初めて人は命の真髄へと足を踏み込み、その妙味を知るのです。そしてその人生は、全存在がそのために創造され、天国と地獄がそれゆえに存在させられ、またそれゆえに使徒たちが遣わされ啓典が下されたところの意義に背を向け、それをおろそかにする者の人生とは全くの別物となるのです。例えその意義の存在以外には報奨がなかったとしても、それだけで十分な報奨となったことでしょう。そしてそれを手にし損ねたことだけでも、十分な無念と懲罰に値するのです。それはちょうど、次の詩に描かれている通りです:

    われら[3]を阻んだ者が得るのは締め出しと怒り 

    われ[4]が放り棄てた者の報いはそれだけで十分

     ある達人らはこう言います:「現世を愛した徒は哀れである。彼らはそこを出ることになるが、そこにあった最善の物を味わうことはなかった。」それでは一体現世における最善の物とは何なのでしょうか?「アッラーへの愛とかれへの親しみ。かれとの謁見の熱望と、かれを想起し、かれに服従することの悦びである。」

     またある者は言います:「時々、こう独り言を言う時がある:“もし天国の住民もこんな状態にあるのなら、さぞかしよい暮らしの中にあることだろう。”

     またこう言う者もいます:「アッラーにかけて。アッラーへの愛とかれへの服従がなければ、現世の徳などはない。そしてかれを目にすることが出来なければ、天国の徳などもないのだ。」

     アブー・アル=ハサン・アル=ワッラークはこう言いました:「心の生は、果てることのない永生であるお方を想念することにある。そして甘美な人生とは、誰でもない至高のアッラーと共にある人生である。」

     このようにアッラーをよく知る達人たちにとり、かれに対する不注意は死よりも酷なものでした。というのもアッラーとの断絶は、真理からの隔絶であるからです。一方、死とは創造との隔絶に過ぎません。一体この二つの隔絶の間には、どれだけの格差があることでしょうか!?

     またある者はこう言います:「至高のアッラーに満足する者は、全てのものに満足しよう。しかしアッラーに満足しない者は、現世への無念さで心が散れ散れになってしまうであろう。」

     ヤヒヤー・ブン・ムアーズはこう言っています:「アッラーに喜んで奉仕する者には、全てのものが喜んで奉仕するであろう。アッラーに満足する者は、全てのものから満足をもって眺められよう。」

    また、心の健常さの印として:その主の想念を休みなく続け、かれへの奉仕に飽きを感じたりしないということがあります。そしてアッラーを示し、かれを想い起こさせ、そこにおいてかれと想起し合うような種類の者は別として、アッラー以外のいかなるものに対しても心の憩いを見出したりはないということがあります。

    また、心の健常さの印として:アッラーに対する日々の任意の務めをやり過ごしてしまった際、貪欲な者が財産を入手し損ねた、あるいは紛失してしまった時に感じる痛みよりも激しい心の痛みを抱くということがあります。

    また、心の健常さの印として:飢えた者が飲食物を求めるように、アッラーへの奉仕を渇望するということがあります。

    また、心の健常さの印として:サラー(礼拝)をすれば現世での不安や苦悩が消え去り、それを終えた時には辛く感じることが挙げられます。そしてそのような者はサラーの中に安らぎと安楽、心の平静と悦びとを見出すのです。

    また、心の健常さの印として:全ての望みが唯一つ、アッラーのみとなるということが挙げられます。

    また、心の健常さの印として:自分の所有物に対して最もけちな者よりも、時間の無駄遣いに吝嗇であることが挙げられます。

    また、心の健常さの印として:行いそのものよりも、行いを正すことの方により大きな重点を置くことが挙げられます。そのような者は行為における真摯さと誠実さ、預言者への随伴と意図の純真さを重大視します。そして善行においてもアッラーからの恩恵を感じ、かれへの義務に対する自らの至らなさを実感するのです。

    これら六つの表象が、健常かつ生命に溢れた心の持ち主にしか現われない印です。[5]

     ◆健常な心に関するまとめ:

     つまり健常な心とは:その全ての望みがアッラーとなり、全ての愛はアッラーゆえ、また全ての意図はかれゆえのものとなり、その身体も行為も、眠りも覚醒もかれゆえのものとなっているような心のことです。またアッラーに話しかけ、かれについて話すことにおいて他のいかなる話よりも心地よさを感じ、かれのご満悦とご寵愛をいかにして得るかということに常に思いを巡らしているような心です。

     またそうすることでアッラーのご満悦を得ることが出来る場合を除き、人と交わるよりもアッラーと共にあることを好むような心です。そしてその平安と安楽が、そこにこそあるような心のことです。このような心は、自己がアッラー以外の何かに注意を逸らされるたび、この節を読んで聞かせるのです:-平穏なる魂よ。満足し、またご満足に与かりつつ、あなたの主の御許に還るのだ。,(クルアーン89:27-28)

     彼は自己に対し、この呼びかけを繰り返し聞かせます。それは彼が主との謁見の日、その御言葉をかれから拝聴するためです。そして真に崇拝されるべき存在の御前にて、その心に「真のしもべ」という称号を頂く為です。こうして彼は義務ではなくその趣向として、「真のしもべ」という属性を得ます。彼は熱愛者がその愛情ゆえに愛する者に仕え、その用事を遂行するように、猛烈な愛情から自発的に、かれへのお近づきを求めてそのしもべとして仕えるのです。

     こうしてその主の御許から命令や禁止のお達しがある度、彼は自らの心がこう喋るのを耳にします:「ただ今参ります、ただ今参ります。私はあなたに聞き従う者です。そしてそれも全てあなたのお陰なのです。そこにおける賞賛は、全てあなたに帰せられます。」

     一方逆境の折には、心がこう喋るのを聞きます:「私はあなたのしもべ、あなたの哀れな者、あなたの貧者です。私は貧しく無能な、脆弱で哀れな、あなたのしもべです。そしてあなたは威厳高く慈悲深い、私の主であられます。あなたが忍耐心を授けて下さらない限り、私にはいかなる忍耐も属しません。あなたが私を支え、強くして下さらない限り、私にはいかなる力も属しません。私にとって、あなたからの避難場所はあなた以外にはないのです。あなた以外に、私が援助を求めるものはありません。私があなたの扉から去ることはなく、あなた以外の行き先もありません。」

     こうして彼は全身全霊をもってアッラーの御前に跪き、自らの全てをかれに委ねます。そして何らかの災難に遭遇した折には、こう言うのです:「これは私に授けられた贈り物、哀れみ深いお医者様からの効き目高い治療薬だ。」そして望む物が手に入らなかった時には、こう言います:「アッラーは私から悪を遠ざけて下さった。」

    いかに望んだことか、あなたがそれを私から遠ざけてくれるのを

    あなたはいつでも私に良くして下さり、最も慈悲深いお方

     彼は順境にあろうと逆境にあろうと、常にアッラーへの道と導かれます。そして彼の前に開かれた扉の中に入る度、彼はアッラーを見出します:

    厭わしい定めも喜ばしいそれも あなたへと続く道に導いてくれる

    私が喜ばないような定めをご遂行下さい あなたは試練の同伴者なのですから

     心と、その中に潜む意識はアッラーにこそ属します。また心が蓄えた財宝や宝物、その奥に潜む麗しい秘密をご存知になるのはアッラーのみなのです。そのことは、全ての秘密が暴かれるその日[6]に誰の目にも明らかになります。

    彼の眼前に明らかになろう、芳しさと光と歓喜が

    そしてよき称揚が、全ての秘密が露わになるその日

     アッラーにかけて。それらの心はかれによって偉大なる知が掲げられれば、そこへとひたむきに努力しました。また真っ直ぐな道が明らかにされれば、その道を歩みました。最重要の課題以外の他のものにそそのかれても応じることなく、それだけを選び、かれの御許にあるものを他の何よりも優先したのです。

    [1] 訳者注:つまり現世と来世における、真の享楽のことです。

    [2] サヒーフアル=ブハーリー(6416)に、二番目の文章がない形で収録。それはスナン・アッ=ティルミズィー(2333)他に収録されている。

    [3] 訳者注:アッラーのこと。

    [4] 訳者注:同上。

    [5] 編者注:著者は六つ以上の印に言及しています。

    [6] 訳者注:審判の日のこと。